縣神社と土気城酒井氏から

金谷郷 江沢清

 

一 縣神社の由来

 文化、科学、技術の各般に亘って日進月歩の変化を遂げている現代社会と異なり、ゆっくりと静かに時が流れ、物作りは全て手作りの品物で賄われていた中世の遠い時代の事などに思いを馳せた時、身近な「我が郷土の古は如何」と考えてみたら、「縣神社と土気城酒井氏」というこの地域にあっては、大変広く知られた歴史的文化遺産があることに気がつきました。

 

 今から五百年も前の中世、戦国の時代であることから、史書を繙いて遂次時代背景を覘いてみたいと思うようになりました。

現在の縣神社は、千葉県規範神社として位置付けられており、造営当初から酒井氏の守護神でした。徳川家康から天正十九(一五九一)年に発給された朱印状に「土気乃郷」(縣神社)の記録があるように、公助があった時代と異なり、現代は氏子が神社の存立を守っており、その氏子は土気本郷町を主体として、山辺地区の金谷郷(名、眞行、安楽地、旧大網駅前地区を除く)餅木、南玉、池田の全ての住民となっております。また、氏子総代に関わる言い伝えについて、総代代表は土気本郷出身総代に限るという事が、長い歴史の中で継承されています。理由は縣神社が現在地に移築される前の百年間、土気本郷の住民は土気城内にあった縣神社の氏子であったという強い意識の現われであろうと思います。

 

二 縣神社の造営と周辺の小字地名      

  初代土気城主酒井定隆は、長享年間(一四八七~八九)に土気城へ進出した時、土気城の鬼門除けとして、現在の地に縣神社を造営しました。また縣神社は、すでに城内にあったものを移築された、ということを福俵の郷土史家安川柳溪がその著『上総国誌』の「古者、在土気城内」という項に記しております。明治二十八年、長南町報恩寺の裏山から発見された鰐口の銘文によって、歴史的事実として証明された事になりました。

 千葉県教育委員会の調査により鰐口銘文は「上総国南山辺郡縣宮奉縣鰐口敬白永徳元年十二月日願主秀倫」と確認され、土気地区が「山辺南郡」に属していた事と酒井氏が土気城進出時の長享年間より、およそ百年前に旧土気城内に縣神社が存在した事が証明されました。

 縣神社は土気城の鬼門除けに造営されました。そのため表参道の大鳥居は、以前土気方面からの道路上に建立されており、縣神社が終点でした。現在の神社周辺の道路は、戦後の昭和二十年代に山林や畑を分筆して造った新道なので、土気城と縣神社間の古道自体が参道として造られたものと考えられます。

 縣神社を造営した長享年間は、周辺の小字が定まっていなかった時代で、爾来、神社に因んだ小字が出来ました。法務局台帳に宮ノ下、宮ノ下前、土気谷、縣台、華表崎、馬場崎、越谷等あり、縣神社在っての地名である事が分かります。

 金谷郷字宮ノ下は、縣神社の下にある金谷四区の字名であります。松戸市平賀にある日蓮上人高弟の一人である日朗上人開基の本土寺に伝わる過去帳(通称「本土寺過去帳」)に依ると「土気酒井小太郎母儀妙含霊天正二十壬辰九月九日宮ノ下ニテ」とあり、宮ノ下が土気城城代家老若菜豊前守邸のあった越谷(現金谷二区)も含め、当時は宮ノ下と呼ばれていた事が分かります。

 妙含霊、即ち五代酒井康治内儀が豊臣秀吉による小田原落城後、帰農した若菜豊前守邸に寄寓していたことは史実として証明されています。土気城が即座に廃城になったためであります。

 

三 縣神社の祭神と所願成就で板絵馬奉納

 「縣の森は、朝靄につつまれる事がある。昔日、淡い朝の日差しで、靄が縣の森の天上を目差して昇り始めた。その厳かな瞬間を古老は言った。『あれは、瑞雲といって吉兆の知らせだ。良い事があるぞ』と」信仰する縣神社の森の現象が、今でも人々の心を豊かにしています。その森の縣神社の祭神は

 ○大日孁貴神おおひるめのむちのかみ(天照大神)

 ○息長足媛命おきながたらしひめのみこと(神功皇后) 

  ○日本武尊やまとたけるのみこと(景行天皇の皇子)

の三神が祀られています。酒井家の守護神として永く崇められて参りました。

 初代の酒井定隆は、神仏を信じる武者として、七里法華の布教と統治を同時に成し遂げ、百年余に亘る間、山辺郡 を中心に上総国の大半の領地を治めました。

 五代康治は、戦国の幾多の戦乱の末、天正七(一五七九)年、治世の集大成として所願成就を祝して、縣神社に「板絵馬著色武者絵」二面(県内最古の絵馬で現在は千葉県立中央博物館に保管)を奉納し、社殿で三日三晩祝宴を催し家臣を饗したとのことです。                                                   

 三年前の天正四年、北条氏の上総進出で、北条、里見和議となり、関東における長年の戦いは遂に終結しました。天正七年に酒井家が所願成就を祝して、牛若丸と弁慶を画題とした板絵馬を奉納した背景には次のような理由が考えられます。

 ①酒井定隆念願の七里法華(日蓮宗改宗)ほぼ成就

 ②関東は北条氏政で統一、戦乱なく農民兵は安堵

 ③天正二年以降、酒井康治は二十三万四千四百石の領主なり。

 以上の三点を康治が確認し、所願成就を祝ったものと思われますが、これは歴史的な判断であったことになります。なぜなら十年後の天正十八(一五九〇)年には、土気城は廃城となったからであります。)

 

四 縣神社の火災と再建

 縣神社は、初代定隆が延徳元(一四八九)年に現在地に土気城の鬼門除けとして造営し武運長久の守護神として崇敬して参りましたが、時代が下がって文化十三(一八一六)年十二月、社殿を焼失しました。しかし、その時、板絵馬著色武者絵二面が焼失せず残っているという事から、拝殿は類焼から免れたということも分かります。

 焼失から二十七年後の天保十四(一八四三)年に再建されました。この長い年月から、関係氏子の忍耐と努力の成果を伺い知る事が出来ます。再建の経緯については、縣神社別当寺としての本寿寺(千葉市土気町)に残されていた「縣神社再建棟札」(縣神社の文書に伝えられている)によって解ります。そこには「文化十三年子十二月焼失、天保十四年虎年十二月五日再建時日誘上人時代也、大工棟梁大網前島西川主水、脇棟梁金谷積田平蔵門人金坂重兵衛、木挽棟梁沓掛村倉右衛門」と記されております。

 なお、大工金坂重兵衛は、現在の金坂重明氏宅の屋号「重兵衛どん」と同名で、子孫として金坂氏自身認識されておられ、祖先からの伝承もあるとの事であります。宅地の近くに在る一間四方の祠の中に、大工重兵衛が縣神社再建工事の折りに、毎日、帰宅してから作ったという社殿の実物模型が二十年前まで祀られていましたが、朽ち果てたので、今では市販の新しい社殿に替えられております。模型は、永い年月で湿気や害虫等の被害で朽ち果てたものと思料するところであります。

 

五 酒井定隆の出自と東国進出

 昭和三十一年四月八日、土気本寿寺に於いて「酒井定隆と日泰上人の四百五十年遠忌」が営まれました。参列者三百余名。当日酒井家第十九代当主酒井貞治氏が出席し、挨拶されたとの由。酒井氏は、当時久留里の上総警察署長であり、また城代家老若菜豊前守の末裔である若菜信雄氏も招待を受けていたとのことです。その時、貞治氏の所持していた系図書では、酒井氏は大職冠藤原鎌足が先祖ということであり、土気善勝寺に現存している墓石銘に「酒井六代与左衛門藤原重治」「七代市郎兵衛藤原実治」「重治の臣富田彦兵衛」とあり、墓石が有力な証左であるとしています。

 定隆は遠江に生まれ、京都で足利義尚(将軍以外の役職時代)の近侍となり、康正二(一四五六)年、二十一歳の時、青雲の志を抱き三家臣を従え、主従四人で関東へ下向、古河公方足利成氏に仕えたとの由。その五年後の寛正三(一四六二)年、古河公方から離れ、文明四(一四七二)年、日泰上人と品川の船上でめぐり逢うのですが、それまでの十年間の足取り全く不明で、史書の記録にも少ない状況です。従って、断片的な記録を繋いでいくのが最も史実に近づく方法であると思われます。

 定隆の不明十年間は、城持ちの武将学に励んでいたことに間違いないと思われます。それも関東の内にあって上総・下総・安房・武蔵といった城持ち武将の間を行き来していたのではないだろうか思います。そして文明四(一四七二)年、品川の船上で日泰上人とめぐり逢い房総の地に於いて日泰上人の法力に依る布教とともに城持ちの武将への決意を吐露しています。『土気城双廃記』に「法力ニテ武士乃出世事共相尋、御祈・・・」とあります。

 

 六 中野時代後、日泰上人への協力

 定隆は、先ず日泰上人に協力して鎌倉の本興寺再建に尽くしました。本興寺棟札銘には、「然今此方法華山本興寺、聖人開闢以後、文明十三辛丑歳林鐘沖旬十六代之祖沙門日泰大檀那酒井清伝、此堂建立而巳(以下略)」とあることから分かります。

 七里法華(日蓮宗)の改宗活動を始めたのは、定隆の房総へ進出の文明四年頃でありますが、上総全域をにらんで改宗の「御觸」を出したのは土気城進出の長享二(一四八八)年になります。左記の文章が残っています。

「御觸」

「此度此領分村々以思召法華宗ニ被仰出候、尤是迄法華宗之處は其儘可被置、外宗ノ儀ハ不残日蓮法華宗ニ可相成、若違背者有之ハ可為曲事者成」 長享二戊申年五月十八日    

        栗原助七㊞

                          伍奉行

                                宮島田七㊞           

          右村々名主中

          改組地区 三二ケ町村

          改宗寺  二七四ケ寺

        以上の結果となっています。

 酒井氏の改宗活動は百年を通して行われ、領国拡大と関係しているようです。政教一致的な領国支配の形成をねらい、日泰上人も新し地盤を皆法華という革新的な状況で確保したといえます。また日泰上人が戦乱に苦しむ農民の心を捉えたこともあるといえます。この様にして土気・東金両酒井は、本納、依古島方面に支配を拡大しました。四代酒井胤治が本納城主黒熊大膳亮を滅亡させ、城代を置いたのは永禄八(一五六五)年といわれており、城跡本城山の麓に法華宗連福寺を創建しています。

 

 七 茂原市粟生野の森川家改宗文書        

千年も続いた森川家の書物に『規式一礼』という永正十七(一五二〇)年正月に園立寺開山日立上人署名の条書文書があります。酒井定隆が改宗令の「御觸」を出してから、三十二年後の事で、この粟生野の園立寺住職が左記改宗の証明文を残しています。

「一従千年、酒井越中守様御領内不残法華宗ニ相定、拙僧開山致シ候ニ付、左之通、(規式一般列記)」、また妙園寺(現圓立寺)宛書状改宗の交渉には「其村妙園寺諸堂、願之通立腐ニ相成候迄、可差置事、且又、不退院賢亮、我等依国縁之者、収納蔵米之内、存命中十五人扶持下授之条、可有心得者成」

 延徳二(一四九〇)年戌九月  領分中粟生野村

              酒井越中守㊞         妙園寺檀那

 

 以上の文書からも解る通り、法華宗への改宗と同時に領内有力者への協力要請を行ったとみられます。名字を持った農民層には、特別な扶持を与え、地侍の組織化を図って軍事力の強化を行ったようであります。特に名主・庄屋といった指導的立場にある人達に対しては、恩典を与えて協力を取り付けたようであります。

 ①改宗令対策で、農民と農村を掌握していった。

 ②「田畑除地免許の事」(酒井定隆の下令書)

「其方社地寺地除地等ノ田畑、足利公方任御例議、則永代令免許之者成」 延徳二年戌九月  領分中粟生野村 

     酒井越中守㊞ 森川甚佐衛門江

 ②下授の事」

「其方、毎度戦功依有之、紋付時服令下授之候。将定紋免許、独礼席申付候、紋所旌旗馬印ニ至迄、相用候共不苦候、永代金可為勝手候成」

  永代七(一五一〇)年庚牛十一月廿三日」

      酒井越中守㊞    森川甚衛門江(二十四代)

 

 八 軍事力をどの様に組織化したのか

 『土気城双廃記』等によれば、兵力の大半は地侍層で、普段は田畑を耕して生活しているので、城内からの連絡方法が重要であったと思われます。大網城主といわれる板倉長門守道治の記した『土気城双廃記』によれば、地侍層を軍事力として組織した様が分かります。

 「然バ名字ノ百姓ハ酒井殿ヨリ扶持方ヲ取、田畑ヲ耕ニモ畔アゼニ鑓長刀籐柄ノ大小ヲ立置キ、土気ニテ鐘、太鼓、貝吹候時ハ、耕地ヨリ直ニアガリ、先帳面ニ付成。一番に鐘、二番ニ太鼓、三番ニ貝吹ヤウニテ、諸事支度有之」

 

また領国の住民の不安定な様子も伺えます。「在々所々心変リ之者共有而、四角八方ヘ敵ヲシリソケル事、其項之老若共存所成」。そして更に、強大な勢力の侵攻に戦火をうける土気、東金附近の農村の状況について北条氏政から家臣の清水上野入道に宛てた左の書状によく表れております。

 「去ル十九東金へ押詰、土気東金両地郷村毎日悉打散候、諸軍ニ申付、敵ノ兵粮ヲ苅取、今明日中一宮へ籠置候・・・」等々、惨状が眼に浮かんできます。この時代は、北条氏政が上総国を自らの領地化の為に侵入を繰り返していた頃であります。

 

九 酒井治世で検地の記録なし

 酒井氏は、その治世百年の間、検地の記録がないがどの様な策で領国を維持したのだろうか。戦国の世では、織田信長までは貫高制{田畑の年貢の額を銭の金額(単位を貫文)で表現し、その広さを表示する方法}であり、豊臣秀吉の時代になり石高制(土地の生産力を米の収穫高で表示)を取り入れた事で、太閤検地(天正十年)天正検地(天正十九年)が行われ、一般的に行われるようになりました。しかし、定隆は上総の国の大半を占める領地、即ち土気家臣団の石附二十三万四千四百石の領地で、検地を行わなかったという事は領民や有力者等の申請(申し出)を信じて検地を行わなかったのかもしれません。

  一方、定隆と同世代を生きた北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直は代替わりの際、代々検地を行っており、永正三(一五〇六)年から天正十七(一五八九)年までに四十一回の検地記録があり、検地域として相模国、武蔵国、伊豆国の三国を一か年に五十八ケ村ずつ検地を行ったとの記録もあります。定隆はこの事実を知ってか知らずか、領民施策としては「足利公方の御例議に任せて」従来の保守的な施策(庄屋名主と協力関係)の踏襲を貫いたと思われます。貫高制から石高制への以降については、世の流れに従っていったものと思われ、家臣団の石附けについては石高制で提示されております。

 東金市の郷土史研究家関岡帝一氏所蔵の資料から土気酒井氏家臣の石高を参考として記してみたいと思います。

 ①土気殿大老衆{天正二(一五七四)年以降と思われる}

  一万石 東金住本国遠江 古川出雲

    八千石  金谷住本国三河 若菜豊前

    八千五百石 高倉住本国遠江竹ノ内太郎左衛門外六名の大老あり。

  ②中老以下三百二十五名、高十六万五千四百石であり、大老と中老以  下合わせて二十三万四千四百石となり、酒井家の最も安定した頃と  いえます。

 

十「わが祖先若菜豊前」について

 

 昭和四十七年、若菜信雄氏によってまとめられた三十頁の手記があります。墓相談にのった時にその手記を頂きました。氏は若菜家最後の当主で、金谷に生まれ成人し、後東京勤務で転移しました。若菜家の歴史を後世に残す責任を感じ記したと思われます。項目のみ挙げると以下のの通りです。

 ⑴ まえがき

 ⑵  この手記を作成した動機

 ⑶  写本について

 ⑷  石高について

 ⑸  土気城再興の元祖酒井定隆と豊前父子との関係

 ⑹  酒井定隆の出現と諸家の系図

 ⑺  東上総の七里法華の由来

 ⑻ 国府台合戦の開戦前一般形勢

 ⑼  国府台(鴻の台)戦役

 ⑽  土気東金両酒井の反目並びに和解

 ⑾  久留里城の攻守(北条対里見)

 ⑿  土気城の攻守戦と両酒井

 ⒀ 小田原城攻囲戦と土気東金の開城

 ⒁  縣神社について

 ⒂  宮谷本国寺の由来

 ⒃  土気本寿寺

 ⒄  あとがき

 

  稲毛浦収容戦 戦場稲毛戦見台に豊前の父の墓石(戦死)あり、金谷宮ノ下墓地墓石と同型とのこと。

 

以上、平成二十八年四月一日大網白里市郷土史研究会発行「忘らえぬかも」(郷土の歴史をさぐる)第九号、より原文のまま掲載しました。

 

付録 

                 石渡功         

十一  失われた十年

 定隆は鎌倉公方成氏に仕え、享徳の乱によって成氏が鎌倉を失って下総古河に移るとこれに従ったが、文明年間(一四六八~八六)に古河城に去って安房に赴き、里見義実に援助を頼んだ。その一方で、下総小弓城主の原氏にも頼んでその配下となり、中野の砦を守ることになった。 このころ、下総の千葉氏、原氏、上総の武田氏、安房の里見氏らはみな古河公方に仕えており、酒井定隆の中野入城はスムーズであった事と思われる。そして、文明十(一四七八)年も境根合戦、翌十一年の臼井城攻防戦に原氏を応援して出陣、これらの功によって定隆は土気古城を再興して城主になった。(以上ネットの上総酒井家より参照)

                         

      本興寺(定隆が日泰上人に協力した鎌倉の寺)

 日蓮上人の鎌倉辻説法の由緒地(現:鎌倉市大町)に、延元元(一三三六)年、日蓮の門弟「九老僧」の一人天目が休息山本興寺を建立しました。永徳二(一三八二)年、日什が二世となり、山号を法華山と改めます。( 「辻の本興寺」とよばれるようです。)

 慶長十三(一六〇八)年、本興寺二七世から妙満寺二七世となった日経が不受不施を説いたため、江戸幕府によって京都六条河原で耳・鼻削ぎの刑に処せられ、関連寺院は取り潰されます。(これを慶長の法難というようです。)

 なお、日経が与同した師日奥らの不受不施派は、キリシタンとならんで幕府の厳しい詮議の対象となったため、三十世日顕により万治三(一六六〇)年、 鎌倉郡飯田村に寺基を移したのが、現在の横浜市泉区飯田の本興寺です。本興寺の飯田移転については、三十世日顕が、「妙本寺末寺本興寺」と「妙満寺末寺本興寺」を切り離し、妙満寺本興寺を別の地に建立しようと決心したことに端を発したともいわれています。

  その十年後の寛文十(一六七〇)年、比企谷妙本寺歴代照幡院日逞が辻説法旧地の衰退を嘆き、寺門の復興を願い、徳川家より寺領の寄付を受け、辻の旧地に本興寺を再興しました。妙本寺末寺となって現在に至っているようです。

 

十二  不受布施の由来とその後

 文禄四(一五九五)年、豊臣秀吉が方広寺大仏殿千僧供養会のため、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗に出仕を命じたことに始まったようで、この時、日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受布施派と、出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂しました。

 不受不施派は江戸時代末期に至るまでキリスト教と並んで弾圧の対象とされたが、明治九(一八七六)年に日蓮宗不受不施派が明治政府に公認を受けた際には信者が二-三万人存在していたとされており、弾圧下においても秘かに信仰を守ってきた一定数の信者が存在したとみられる。

高埜利彦著『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、二〇一四年、P394-396より

 

十三  立正安国論から

不受不施の事は、日蓮の立正安国論を参照下さると解るように思います。その一部を抜粋します。
『「仁王経に云く」
仁王経の護国品には次のように説かれています。
「国土乱れん時は先づ鬼神乱る。」
国土の乱れる時は、まず悪魔が乱れる。
「鬼神乱るるが故に万民乱る。」
鬼神が乱れるから、万民が乱れる。
「賊来りて国を劫し、百姓亡喪し、臣君、太子、王子、百官共に是非を生ぜん。」
外国から賊が攻め寄せて国をおびやかし、そのために命を失う者が多く、君主、太子、王子、百官の間に争いが起こる。
「天地怪異し、二十八宿、星道、日月時を失ひ度を失ひ、多く賊の起ること有らんと。」
天地の間に怪しい現象が現われ、二十八の星座の位置や、星や月や日の運行に狂いが生じ、内乱が各地で起こるであろう。
また
「仁王経に云く」
仁王経の嘱累品には、次のように説かれています。
「諸の悪比丘、多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。」
多くの悪僧たちがいて、自己の名誉や利益を得ようとして、国王や太子や王子などの権力者に近づいて、正法を破り、国を滅ぼすような自分勝手な間違った教えを説くであろう
「其の王別えずして此の語を信聴し、横に法制を作りて仏戒に依らず。」
その王たちは正邪を見分けることができず、その言葉を信じ、正法を護れという仏の戒めに背いて、勝手な法律や制度を作るであろう。
「是れを破仏・破国の因縁と為す。巳上。」
これが仏法を破り、国を滅ぼす原因となるのである。』
 以上のような事を記した立正安国論を鎌倉幕府最高実力者北条時に提示したのです。

 

十四  日蓮の苦難と経緯

日蓮は立正安国論で鎌倉時代の世が大地震、大風、飢餓、疫病で混乱していた時に、法華経、護国祈祷の立場で原因は悪僧により世は乱れているとしました。批判の矛先である法然は、すべての大乗経典と仏・菩薩・神々を捨てよ、閉じよ、閣(さ)けよ、抛よの四字を説いて、多くの人びとの心を迷わせている。と、天台、真言、禅等を否定し、難行から念業を推進したのです。そして、「専修念仏事件」として後鳥羽上皇によって、四国にに流罪になったのですが、わずか十か月で放免になり、後も続く法然の「専修念仏」とする阿弥陀仏を日蓮は批判し、また乱れている仏世を憂い、立正安国論を説いたのです。

その後安国論や辻説法などで、他宗の僧らを刺激して焼打ちにされ、幕府によっても、伊豆国伊東に配流されます。その後も蒙古からの国書が届くという中で、阿弥陀仏派の訴えや危機があり佐渡に流罪になるのです。その後蒙古の来襲が日蓮の予言通りとなり、鎌倉に呼び戻されるのですが、幕府は三度目に提示した日蓮の立正安国論を認めなかったのです。

身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて波木井郷(身延入)へ配流。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。そこで弟子一同に説法し九老僧(六老僧とも言われる)を後継者としました。そして日蓮の没後の正慶二(一三三三)年、後醍醐天皇によって鎌倉幕府は崩壊し、その後に日蓮宗として認められたようです。

 最後に日蓮の思い。

「自らの幸せを願うならば社会の安穏を祈るべきだ」

 この世界こそが仏の在す浄土である。この世を捨ててどこに浄土を願う必要があろうか〔来世に望みを託すのではなく、今生きているこの世界にこそ、希望を求め続けるべきだ〕。
「一身の安堵を思わば、まず四表の静謐)を祈るべし」

 自らの幸せのためにも、広く社会全体が平穏無事であるよう願い、そのような世の中になるために皆努力するべきだ。

これこそ日蓮の思想の原点だと思います。

 

あとがき

正法を守ることが国を守るという事、これが法力だといわれる酒井定隆を動かし、七里法華の改宗に至った大きな要因ではないかとも思われます。正に酒井定隆の政教一致が、山辺郡で在った大網白里地区一帯を戦国乱世の百年に亘って統治したのです。その影響は今の大網白里地区にあるのではと思うのです。この江沢清氏著の「縣神社と土気城酒井氏」を拝読してから、日蓮の「七里法華」を想い、自分はクリスチャンですが、日蓮のことを知りたく学んで見て、何かイエスキリストの布教を思うようでした。また釈迦の教えは纏められないまま中国に渡たり、天台宗の祖智顗による法華経が最澄によって日本に渡って多くの宗派が生まれ、(禅宗の祖は達磨大使)また同じ時代に、密教と言われる真言宗も空海によって日本に渡たって来たのです。

その法華経は聖書に影響されていると言われます『久保有政著「法華経と聖書」より』。

また空海の真言宗も中国の景経(中国で流行したキリスト教)に影響されたと言います『佐伯博士著の「佐伯 好郎博士と日ユ同祖論」、空海と景教より』。

しかし、日蓮は天台宗からわかれ、法華経の南無妙法蓮華経から「立正安国論」」という日本独自の仏法を説いたとも言われているようです。 それは「立正安国論」は法華経だけでなく、護国三部経というわれる「法華経・金光明経・仁王経」、の他に大集教など多数の教えをも駆使して、「立正安国論」を説いた事だと言われています。その他に佐渡でも教えを説いたようです。

 何れにしても、酒井定隆が立正安国論を学んだかどうかは分かりませんが、『七里法華』を行ったことは、「立正安国論」を学んだ事になると思うのです。

 定隆が検地を行わず、領民有力者達の申請を信じていたようで、これも定隆が日蓮宗の「立正安国論」を信じ領民あっての政治を行っていた事が解るようです。酒井定隆の政治力の偉大さは、何時の時代にも通じると思うのです。この偉大な事で、酒井家は北条家の小田原城落城の土気城崩壊後、徳川幕府に成った後、徳川家の家臣に召し抱えられた事でも判明します。(寛政重修諸家譜に記載されている由)

大網白里市の文化財に縣神社本殿や弁慶・義経の絵馬と縣大杉が登録に成っています。そのように縣神社から大網白里市の歴史が読み取れるのです。この江澤清著の「縣神社と土気酒井家」が、大網白里市の歴史の原点として、後生に受け継いで行かねばならないと思っています。石渡

 

縣神社」は土気城の鬼門除けに長享年間に造営されました。天正19(1591)年より徳川家康を始め、秀忠、家光など歴代将軍より社領5石を寄進されています。境内には市文化財の「大杉」幹周り5.1mがあります。