2016年1月
見失った経済学
実体経済から考える
自由競争の名のもとに価格競争をするということは、経済学を無視していることになることを述べてきましたが、具体的述べますと売手買手の関係は、売手は買手の為に心をつくし、サービスや負担を惜しまずに商品を買ってもらう行為を行います。そして買手もその売手の行為を見て価格に関係なく商品を買います。その売買は商品が高いか安いかでは無いはずです。
しかし、現在の日本経済を見ると安く安くという価格競争は、売手買手の気持ちを無視した行為で、経済学を無視した行為に他ならないのです。それは利潤が経済を円滑にすることを忘れている結果で、利潤を上げるためには生産に携わる労働者が重要なキーになっているはずで、そして資本家、地主など利害関係者もその労働者によって潤い、経済も利潤を上げた結果納税等で国も政治(福利厚生、海外援助等)に力を入れられることになるのです。
全ての人の力が調和がとれてこそ経済は成り立っているはずです。それこそ神の見えざる手によって社会は経済によって成り立つように出来ているはずなのです。それが国富論の概念でもあり、マルクスの概念でもあるのです(国富論と資本論の類似)が見失っているのです。そして、そういう事を見失った故に世界恐慌や第二次世界大戦を起こした結果だったことを忘れ、未だに自由競争の名のもとに価格競争や、相手のことを考えないで私利私欲で物事を考える行為は、神を恐れずに社会に反する行為に他ならないことなのです。
今の日本は軍備どころではなく、見失っている経済を深く反省することが重要だと考えます。そして世界は神の御手で動いていることを忘れないでもらいたいものです。
旧約聖書、創世記の2章に、神は「善悪を知る木から取って食べてはならない」(16節)と善悪を知る木の実を食べることを禁止されています。それは善悪とは人間が判断するのでは無く神が判断すると、また人が神の位置につき勝手な自由を行使すると破壊が起こると解釈されています。まさに政治家の指導者によって国民が窮地に陥るか救われるかに掛かっているので、中国に対しても国際的に対しても善悪で判断するのではなく、責任を持って判断してもらいたいものです。それは対立するのでは無く協力関係を保つことです。そして経済学は聖書でもあるのです。