2020年8月
経済学から考える自由と平等
日本国憲法の3章13、14条に国民は法の下で自由で平等と記されています。また聖書の中で「ブドウ園の農夫」の章でも後が先で先が後という事は平等だと解釈されているようです。
このように平等とは人間の基本的な問題で、ブドウ園の農夫の比喩の中で、労賃を受け取る時に先に来て労賃の約束して働いた農夫と、かなり後に来て働いた農夫とが同じ労賃だったことで、先の農夫が不満を言うと雇い主は、貴方とは始め賃金の約束をしたではないか、貴方は妬いているのかという。これこそ他人は他人、自分は自分という相手を思う気持ちが大切だという事に他ならないのではと考えます。そして、それこそ自由で平等だと考えられるのです。
現在の経済社会の中では、人それぞれ能力や何かの理由で生活に差が違っているものです。しかし、これは不平等では有りません。経済学の中で完全競争や完全雇用という言葉が有りますが、完全競争=自由競争という意味ではなく、完全競争とは需要=供給のことなのです。静態で完全競争の下では利潤は消滅するという共産党宣言がそれです。それは平等ですが自由が無くなると言うことに成ります。この静態で完全競争と言う静態とは、よく負債が有っても資産が有るから財政破綻しないという意見がそれです。経済を資産負債のバランスシートの静態で考え見るのでは無く、経済活動の中で人、物、金の働きで利潤が生まれ、利潤から税金として徴収され、その大いさが財政に影響を与えると言う動態で考え見る事が重要なのです。
経済社会の中では不完全競争で不完全雇用であり、生活の中では不平等とは言えませんが、自由が故に格差が生じます(弱肉強食的な)。19世紀に経営者や指導者が自由をはき違えるように成った虚無主義が世界恐慌を起こした歴史を考えると、アダムスミスから始まった経済学を見失った結果で、利潤を追求する経済学が必要で経済政策が重要になるのです。それは弱肉強食を是正する為に国民救済の社会保障制度や補助金制度等で保護し、リストラによる利潤追及では無く、また金融利潤に拘らず国内産業(国内生産に切り替え)での適正利潤を追及するべき政策が重要になるのです。その他に景気の調整役の金融財政政策も経済政策に含まれますが、財政不足から消費税に頼らないよう、利潤が財政政策に影響するので、産業利潤を上げられる政策が重要なのです。
従いまして価格競争は利潤を無視した事に成り安く、利潤が無くなれば倒産が相次ぎ国家主体になり、静態で完全競争に等しくなるという事に成るのです。そして自由では無くなるという事に成ります。資源が無い日本はどうするのか?、そのように動態的な経済政策が日本国憲法の自由平等を補い、また聖書の意義がその根源にあるのです。
そして国民が自由と平等の下に行動することが民主主義なのに、全ての指導者が経済学を見失った故に格差社会を作り出し、弱肉強食の社会に成って行く危険を感じていないのが大問題なのです。社会保障費削減や補助金削減が最たる問題です。民主主義とは選挙だけでなく憲法や聖書の後ろ盾による国民救済の動態的経済学が重要だと言う事に成るのです
最後にこれはナショナリズムを言っているのでは有りません。底辺への戦い(価格競争)は利潤の低下になって財政に負担が係り国民救済が出来なくなるという事です。社会補償費削減、補助金削減をどう考えるのかです。