2016年2月
経済学は聖書1
「ブドウ園の労働者のたとえ」より
或るサイトで「ブドウ園の労働者のたとえ」マタイ20章で、働いた者と働けなかった者も同じ賃金を払った主人。それが経済学とは相反する行為であるということをネットで見ました。そして「経済学では働いた人もそうでない人も同じ賃金では、労働のインセンティブなどがなくなり、社会の効率が悪くなる。社会を豊かに幸せにするには、労働に見合った賃金を支払わなければなりません。」と訴えています。しかし、この章は比較するのではなく、弱者を救済することだと解釈できるでしょう。それは同じ20章に働いた者の不満に「わたしはあなたに対して不正を働いてはいない。あなたはわたしと1デナリの約束をしたではないか・・・妬ましく思うのか」という節があるので解るでしょう。決して弱肉強食ではなく弱者救済が経済学の基本だからです。それが現在の生活保護であり失業保険でもあり、各補助金制度や救済制度でもあるのだと考えます。故に経済学は聖書だと言えるではと思います。次にネットで、聖書の中で私有財産の解釈が載っていたので下記に示します。
■私有財産制度の容認
聖書に述べられているように、万物は神の所有物である。だから、神は誰かに土地を与えたのではなく、万人に与えたと考えられていた。(詩編24章1節)こうした認識から、中世初期の自然法(教会法)では、財産は共有制こそが正しいという見方が支配的であった。(それが故の争いが有ったのではと思われます)私有財産制度は政治制度と同様に、原罪に対する罰の一種と考えられていた。
これに対して、トマスアクィナスは私有制度を容認した。神が与えた法に従えば私有財産は認められない。しかし、人間が制定する実定法は神が与えた法を解釈したものであるから、神の法とは矛盾しない。したがって、実定法が認める私有財産制度は容認されなければならない。これが旧来のキリスト教思想と現実との不一致を何とか整合させようとしたのである。こうした議論を補強するために、共産制に対する私有財産制度のメリットを3点指摘している
「人間が固有のものを所有することは正当であるばかりでなく、次の3つの理由から人間生活のために必要不可欠である。
◆第一に、万人あるいは多数者に共有であるものよりも、自分だけの権能に属するものを取得することにより大きな配慮を払うからである。
◆第二に、ある物財を取得することについての固有の配慮責任を課した方が、より秩序正しく処理されるからである。これに対して、誰彼の区別なしに何でもかまわず取得できれば、混乱が生ずるであろう。
◆第三に、このことによって各人が自分のもので満足している限り、人々の間により平和的な状態が維持されるからである。」
要するに、(1)私有財産の方がその獲得に努力し、(2)共有財産だと混乱が生じ、(3)各人の私有財産に満足していれば平和になる。これが私有財産を正当化する理由である。ただし、後の時代に「緊急〔請求〕権」と呼ばれるようになる、困窮者の財産請求権という例外を明確に認めている。聖書から「この世に富んでいる人々に対して、快く施し分け与えよ」(テモテへの手紙第一 6-17)を引用しながら、「緊急事態」には財産を分与することをトマスは当然の義務としている。それだけでなく、緊急事態においては窃盗さえ許されるのである。
「緊急必要性がきわめて緊迫かつ明白であって、その場にある物財でもって現在の緊急必要性に対して対処しなければならないほどである場合には、.他人に物財をあからさまにであろうと、密かにであろうと取って自分の緊急性に対処することが許されるのである。このような行為は厳密にいって窃盗ないし強奪にあたるともいえない。」
以上まだ続くのですが、(ネットで「聖書の中の私有財産」を参照下さい。)、特に「すべて隣人のものを(一切)むさぼって(欲して)はならない」(出エジプト記20章)という教えは私有を認めていることに他ならないのでは?と考えられるのです。以上のように経済学は聖書で聖書が経済学と関係ない、政治とは関係ないという政教分離は的外れだと考えられるでしょう。そのように聖書の中に、アダムスミスの国冨論と、マルクスの資本論の概念があり、ケインズやケインズ派のロビンソン、ハンセンの経済学に通じているのであって、金融だけに頼るマネタリズム経済とは一線を引くべきだと考えられるのです。