ロビンソンの不完全競争論

                                                    2012年9月
 ロビンソンはマルクスとケインズの融合を試みたようです。それは、マルクス経済学から近代経済学への働きかけでなくて、近代経済学からマルクス経済学への働きかけであると。下記に十五大経済学の中から抜粋します。
『マルクスの理論は、近代経済学にないものをもっている。近代経済学は経済の静態分析にかけては精密な理論をもっているが、マルクス理論の中に豊かにもりこまれたような長期動態の分析に乏しい、その点でケインズの有効需要の理論は、資本主義の運動法則を解明するための手掛かりを与えるものだから、このケインズ理論を足場として、マルクス経済学をといてみよう、このようにロビンソンは考えていた』「富士書店発行世界十五大経済学マスクスとケインズ209ページより」

 その中でマルクス理論の労働価値論を批判しました。

『マルクスは価値にもとづいて価格を説明しようとしているが、その価値なるものは、あくまで観念的な存在であって、手にとり目にふれることのできる経験的なものでない、しかし、その価値論を放棄したマルクス経済学なるものを、マルキストが承認する筈がない、労働価値こそは、彼らにとって、資本主義の本質認識のための絶対不可欠の用具なのであるからと』「同書210ページより」

 そして、利潤と搾取の問題、それに不完全競争をこう考えました。

『ロビンソンは、利潤の源泉を、経済の動態的発展と、資本の希少性とに求めている。完全競争の静態を実現すれば、そこでは利潤は消滅する筈である。しかし、近代技術の発展の結果一企業の単位の生産設備、したがって所要資本の最低量は厖大なものになっている。そこで少額の資本では、利潤があるからといって新しく企業の列に参加することはむずかしくなった。そこで近代企業では、技術面に制約されて資本の流入流出が自由でない、すなわち完全競争ではないから、そこで企業は希少性にもとづいて、利潤をあげることになると考えられる。それ故、利潤は決して労働からの搾取にもとづくものとはいえないのである。しかしロビンソンは、この資本主義社会において、労働階級の生活条件が、資本の利潤に比して、不利な条件に支配されていることを認めないわけにはいかない、だがその原因を搾取にではなく、労働市場における競争の不完全性にもとめるのである。資本家は少数だから、その生産物を売るに際して、競争上強い立場に立っている。そこで生産費以上の価格で利潤を含めたものをいつも要求しうる。ところが労働人口は極めて多い、この労働者が少数の資本家に、その労働力を売らんとする場合には、その市場は不完全競争市場である。労働者はどうしても最低生活費でしか自己を売ることができなくなるのである。市場における資本と労働の力関係が、総生産物の両者への配分を決定するものだと、ロビンソンはみている』「同書211ページより」

 尚も不完全競争論をこう考えたようです。
『多数の企業が競争しあっている経済の場合でも、やはり競争は不完全なものである。何故なら、それらの企業は同一種類の製品をつくっているのだが、消費者の方は、それらの商品を同じものとして無差別に選択しようとはしないのである。たとえば、ある消費者は多少の値段が違っていても、特定の店の商品を愛好するということがあり得る。このような場合には完全競争の理論はあてはまらなくなる。ロビンソンはこれを不完全競争とよんだのである』「同書215ページより」
 以上から簡単にとく問題ではないようですが、現在の安く安く、競争だ競争だという社会風潮は、高い商品でも買うという、神から授かった人間の自由意思をそこなうもので、ロビンソンの考察は自由思想を容認したものなのです。そして自由主義経済は不完全競争のもとで成り立っているようで、その不完全さを何かの力で修正することが必要になっているようです。また、静態的に経済を考え分析するのではなく、動態的に経済を考え分析することだということです。それに自由競争という概念の議論はさまざまあるようですが、ここでは、価格競争での規制撤廃や緩和、の問題ではないと考えます。なぜなら自由主義は不完全競争のもとでなりたっていて、その不完全性になにかの力(規制,保護等)を必要としていることと、規制緩和による価格競争が利潤と所得の減少となり、現在、経済の衰退をたどってきたことで証明されているからです(下図参照)。したがって自由競争とは技術競争だといえるのでしょう

科学的な理論をイデオロギーから区別する最善の方法は、イデオロギーを逆さまにしてみて、その上でその理論がどうみえるかを調べてみることである。もしイデオロギーとともに崩れ去ってしまうならば、その理論は独自の真理性をもたないわけである。
 経済理論は、せいぜい一つの仮説でしかない。それは断定的にこうだと我々に教えるものではない。それはある現象についての可能的説明を示唆するものであって、それが事実として検証されるまでは、正しいものとして受入れることはできないものである。
 経済学を学ぶ目的は、経済問題について一連のでき合いの答えをうるためでなく、いかに経済学者にだまされないようにするかを習得するためである』。
           ジャン・ロビンソン「マルクス経済学の検討」より

 以上、富士書店発行、十五大経済学マルクスとケインズの中のロビンソン経済学の冒頭より抜粋しました