生命誕生と聖書

生命人間の誕生は数十億年とも言われているようです。現在は科学的にも考古学的にもそう言われているのは事実でしょう。しかし、それはあくまでも生命誕生であって、それでは人間の“考え思い悩み嘆き喜怒哀楽”の性格はどう解釈できるのかが大問題です。勿論進化論だけでも解決されません。それよりニーチェによれば近代人はルネッサンス文化の英雄や古代ギリシャ人と比べて進化しているどころか退化しているのではないか?と疑問を投げかけています。

人間は集団で生活してきました。そこにはおのずから族長が存在し、その族長によって集団を仕切って来た筈です。そして、そこから人間の悪の強さから神という存在が生まれ、聖書が出来たと考えるのが最も正確な考え方なはずです。(およそ紀元前1800年(旧約聖書は1600年に渡る神とイスラエル民族の歴史を綴った書物である。(ネットの聖書の起源より))そして集団を営んでいる限り近代になって、幸せを考える経済学が生まれたと考えるのが最も適切な歴史感覚ではないでしょうか?そういう意味で経済学は聖書であると言えるのではと思うのです。

要するに生命誕生による人間という存在は、人間の性格、人間とは何かという問題を考えない限り成立しない事であり、人間の性格は科学者で哲学者であったデカルトでさえも解き明かせなかった問題なのです。たどり着いたのが「われ思う故に我あり」なのです。

人間の性格そのものは聖書の中で遺憾なく表現され解釈がなされている事を思うと、地球や生命誕生は聖書の中の神によるもので有るということが正解だと言えるのです。とりも直さずイエスの第一第二の教え(神を愛し隣人を愛せ)と、汝の敵を愛せ(諸説あるようですが、自分を愛する人を愛することは簡単ですが、敵対する人を理解し反省する事と解釈できます)という教えが絶対なのです。

松下幸之助氏が主な政治家の登竜門と言われた松下政経塾に与えた「人間とは何か」という命題は未だに回答されていません、何故なら聖書を学んでいないのと、19世紀のニヒリズムと経済学史や実務(利潤という大切さ)を知らないからだと確信しています。(その松下幸之助氏は企業人と会う挨拶は”儲かってまっか”と言ったそうです。また利潤だけの追求ではなく社会的責任を述べていたようです。)
そういう事から生命誕生の歴史は人間の性格を抜きにした問題であり、その人間の性格は聖書でしか解き明かされていないのです。

今のまま内需拡大を忘れていると日本経済社会は混乱していくはずです。まだ世論が気が付いていない経済社会の日本の行く末を憂いています。