2015年3月
マルクスとケインズより
アダムスミスの国富論は、経済学が科学としての成立をみた歴史上最初のものであると考えられている。しかもそれは同時に資本主義という経済組織が確固たる成長をとげつつあることを、広く世界に告げひらせるものであった。ケインズの一般理論から160年前の1776年であった。
そのスミスはこの世の背後に創造者としての神を漠然と想定していた。神はこの社会をつくったときに、人間の魂のなかに、歯車やゼンマイにあたるものをのこしておいた。それは利己心であり、そしてちょっぴりとした利他心である。人はこのちょっぴりした利他心をつき随えた利己心によって、利益を追求していくならば、社会全体が調和ある発展をとげるようなしくみに出来上がっている。個人の利益は、“神のみえざる手”にみちびかれて全体の福祉に貢献する。したがって我々のなすべきことは、この社会法則を自由に貫徹せしめることであって、これを阻害することであってはならない。
アダムスミスの経済理論は通俗学者によって自由放任と名でよばれるようになったのであるが、無条件に自由をといたのではなく、利他心に守られた自由をといたのである。正義への配慮はスミスの思想の中で注目すべき地位を占めている。しかし、実業界の人たちは、このような考え方はなかった。自由放任の声を高らかに叫び始めたのである。そしてスミスの自由経済の理念は、150年間、ヨーロッパの資本主義を支配したのである。
しかし1929年に始まる世界大恐慌が明らかにしたことは、資本主義の経済には自律的な景気調節作用はもはやないということであった。経済理論と政策との新たな検討がはじめられなければならなくなったのである。だが注意せねばならない、新しい理論は大不況によって突如として必要となったのではなく、衰徴と隆盛を繰り返していた結果直面したのであった』
【以上富士書店発行の十五大経済学マルクスとケインズ23ページ〜24ページより抜粋】
1800年代の虚無主義は、利他心を捨て自由放任を謳歌した実業家によったことがわかるようで、ニーチェが“全ての神々は死んだ”と叫んでいたことでそれがうかがわれます。(文庫クセジュよりジャン・グラニエ著須藤訓任訳白水社発行ニーチェより参照)
それは、産業革命により機械という怪物が資本制生産の支配者となり、スミスの予期しなかったような社会問題が起こり、リカードオは資本主義の未来を決して否定しはしなかったが、その分析には一抹の暗い影がさしていた。利潤率低下の傾向というマルクスを思わしめる考え方がそこに現れていた。機械は必ずしも労働者階級に幸福を与えるものではないという見解が説かれた。マルクスはこのリカードオから多くのものを引き出している』【富士書店発行の十五大経済学マルクスとケインズ10ページより】
この利潤率低下の問題はケインズとマルクスは一致している。それはケインズは資本の利潤率(資本の限界効率とよんだが)長期的にみて低下傾向にあることをのべている。その理由はアダムスミスと同じく、資本蓄積が進行するにつれてその希少性が失われてゆくからだということであった。利潤は資本が乏しくその競争力が強いところから生まれてくるものとみられている。マルクスも同じく利潤率の低下をといたが、それを資本の有機的構成の高度化から説明した。その説明は違っているが、結論においてケインズとマルクスは一致している。ケインズからは長期沈滞理論が、マルクスからは資本主義崩壊論が生まれた」【同書58ページより】
以上世界十五大経済学マルクスとケインズから原文のまま抜粋しましたが、アダムスミスの経済学は普遍的な真理であり、マルクスも「科学的批判の精神にもとづく一切の評価は、私の歓迎するところである。けれども、わたしがかって譲歩したことのない、いわゆる与論なるものの偏見にたいしては、わたしは依然として大詩人ダンテ(偉大なるフィレンツエ人)の格言をまもる。「汝の道を進め、而して、人々は彼らのいうとおりに任せよ」。【世界十五大経済学マルクスとケインズ(近代経済学研究会編、富士書店発行)80ページより】とあります。
また、資本論でも「私は、ヘーゲルの弁証法の神秘的な側面を、三十年ほどまえに、すなわち、なおそれが流行していた時代に批判した。しかし、モーゼス・メンデルスゾーンがかのスピノザを取り扱ったように、すなわち「死せる犬」として、ヘーゲルを取り扱っていた。したがって私は、公然と、かの偉大ななる思想家(ダンテ)の弟子であることを告白した。そして、価値理論にかんする章の諸処でヘーゲル特有の表現法をとってみた。弁証法は、その合理的姿においては、ブルジョア階級とその杓子規約な代弁者にとって腹立たしい恐ろしいものである。というのは、それは現存しているものの肯定的な理解の中に、同時にその否定の理解、その必然的没落の理解をも含むものであり、生成した一切の形態を運動の流れの中に、したがってまた、その経過的な側面にしたがって理解するものであって、何ものをも恐れず、その本質上批判的で革命的なものであるからである」(岩波書店発行「資本論1」31〜32ページより抜粋)
これらのことから、ダンテはキリスト教の推進者であり、マルクスも同じだったことがよみとれます。また決定的なことは、同岩波書店発行の「資本論1」の17ぺージに「経済学の取り扱う素材の特有の性質は、もっとも激しいもっとも狭量なそしてもっとも憎悪にみちた人間胸奥の激情である、私利という復讐の女神を挑発する。今日では無神論は軽い罪であると言ってよい」とマルクスは述べていことでもわかるでしょう。
そして、そのことは、聖書のルカの福音書19章8〜26節に、施し与える愛と、商売する大切さをイエスキリストはたとえ話でしています。その最後の26節に「持っている人は更に与えられるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」という弱肉強食の社会から、「神を愛し隣人を愛せ」(ルカの福音書10章27〜37節)というイエスの第一第二の教えと、「あなたがたは敵を愛しなさいそうすれば沢山の報いがある」(ルカ6章35節)が導きだされ、マルクス経済の原点となっているのでしょう。まさにスミス、マルクスの経済学はイエスの教えからきているのです。
またマルクスとケインズの利潤率の低下の考察も、現在の価格競争をしてきた結果、利潤、利潤率の低下や、商品が溢れているのをみますと、普遍的な真理と経済学を見失っているのではと思います。
『世界大恐慌のまえアメリカやイギリスの資本主義には恐慌とか不況というものは経済活動の単なる一時的な摩擦による混乱にすぎない、自由に放置しておけば必ず回復するという考え方であった。とくにアメリカの大統領クーリッジは、何もしない政府こそ最良の政府といっていた』【世界十五大経済学マルクスとケインズ(近代経済学研究会編、富士書店発行)21ページより】
その恐慌についてマルクスは「資本主義社会の矛盾に充ちた運動は(資本主義の基本的矛盾とは、部分的ではない一般的な過剰生産傾向を生む生産と消費の矛盾である)、実際的なブルジョアにたいしては周期的な循環の移り変わりにおいて、もっとも切実に感じられている。近代産業は、この循環を経過するものであって、その頂点が一般的な恐慌である。恐慌はまだ先行の段階にあるが、ふたたび進行を始めている」(岩波書店発行「資本論1」、32ページより抜粋)
このことからマルクスは世界恐慌を予言していたことが読み取れ、そして、利他心を忘れ自由放任のなかにいた結果であることがわかります。また、マルクスが懸念していたことが大恐慌で証明されたのです。現在日本は後進国に人気があるようですが、しかし、これは価格競争による労賃の安い海外に生産基地を求めた結果だといえるのであって、後進国のためではないのです。なぜなら価格競争は利潤、利潤率の低下を招き、またデフレを誘発し国際的にも悪影響を及ぼすからです。
このことをエンゲルスはこう述べています「資本論は大陸ではしばしば【労働者階級の聖書】といわれている。この書でとられたいろいろの結論が、ドイツやスイスはいうに及ばず、フランス、オランダ及びベルギーにおいても、アメリカにおいても、またイタリアやスペインにおいてさえも、日ごとに次第次第に労働者階級の偉大なる運動の基礎的な原となっているということ、この運動は知識人の間においても、労働者階級の間に劣らず普及しつつある。しかし、これが全部ではない。イギリスの経済状態の根本的な研究を、不可抗の国民的必要事としてせざるをえない時代が、急速に迫っている。イギリスの産業体制の活動は、生産の、したがって市場の不断の急速の拡大なくしては不可能であるが、いま休止状態にはいろうとしている。自由貿易はその源を涸渇せしめてしまった」(「資本論1」岩波書店発行49〜50ページ抜粋)
そして「他の諸国民がイギリスの自由貿易の例に倣うであろうということを、四十年も待って無駄であった。そして、会議所はいまやこの立場を変更すべきときがきていると考える」ということで決議をとり、そして、この議案は可決された。(同書51ページ抜粋)
また、「急速に発展する外国の産業は、いたるところで、イギリスの生産にたいして真正面にそびえ立っている。ただに関税で衛られた市場においてだけでなく、中立の市場でも、さらに英仏海峡のこちら側においてさえも。生産量は幾何級数的に増大するのに反して、市場の拡張は、せいぜいで算術級数で進んでいる。1825年から1867年にいたる間つねに繰替えされた停滞、繁栄、過剰生産および恐慌という10年の循環は、たしかにそのコースを走り終えたように思われる。その結果は、ついにわれわれを、継続的で慢性的な不況という絶望の泥沼にもっていってしまったのだ」(同書50ページより抜粋)
最後にマルクスの思いが詰まった記述が資本論1にあります。「労働力と買いと売りとが、その棚の内で行われている流通または商品交換の部面は、実際において天賦人権の真の花園であった。ここにもっぱら行われることは、自由、平等、財産およびベンサムである。彼らを一緒にし、一つの関係に結びつける唯一の力は、彼らの利己、彼らの特殊利益、彼らの私的利益の力だけである。そしてまさにこのように各人が自分のことだけにかかわって、何人も他人のことにかかわらないということであるから、全ての人々は、事物の予定調和の力で、あるいは万事を心得た神の摂理のおかげで、はじめて彼らのお互いの利益、共通利益、総利益のために働くことになるのである」
(岩波書店発行、「資本論1」、306ページ抜粋)