2014年10月

近代哲学の課題でもあり、松下幸之助氏が松下塾に与えた命題でもあるようですが、人間とは弱く愚かで罪深い者ということがいえるでしょう。それは、してはならないことをしてしまう(創世記アダムとイブ)から始まり、「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる」(新共同訳コレヘトの言葉7章29)とあります。そしてキリスト教とユダヤ、イスラム教との確執をみても、また十字軍とイスラム教との戦いは、イエスキリストの「あなたがたも聞いている通り、昔の人は『隣人を愛し敵を憎め』と命じられている。しかし私は言っておく、敵を愛し自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ福音書5章43〜44節)この教えを忘れた人間は、弱く愚かで罪深い者なのです。、この敵を憎めと旧約聖書に直接はありませんが、レビ記、申命記で表現されています。
 このことは、捕えたイエスをどうするかをピラトが民衆とのやりとりの中で、民衆は十字架にかけろといい、ピラトは騒動がおきそうなので、「この人の血について、わたしには責任はない」すると民衆全体が答えていった、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」(マタイ27章24〜25)とあります、当時、ユダヤ教の人たちはイエスが敵だったのです。そして、「子孫の上にかかってもよい」というようにイエスを憎んだのです。そしてユダヤ教からキリスト教とわかれイスラム教として、現在もキリスト教との対立が続いていることを思うと、先進国がイエスの教えが行き渡ってない政治家の責任だと考えられます。勿論、侵略とテロは認められませんが、協力関係は大事なことなので、「汝の敵を愛せ」は世界平和のもとなのです。この教えを忘れた人間の弱さ愚かさ罪深さでしょう。これこそキリスト教の神髄だと考えられるでしょう。
 敵を愛するということは、自分を愛する者を愛するのは簡単で嫌う者を愛するとは、自分をよく知りそして相手もよく知ることで、多くの恵み得るということだということが、ルカの福音書6章27〜36節にもあります。
 人間の才能(タラントンのたとえ)について「天の御国は、僕たちを呼んで、自分の財産をそれぞれの能力に応じて、ある者には5タラントン、ある者には2タラントン、あるものには1タラントン預け旅に出た 旅から帰った主人はしもべたち呼んで、自分が預けたタラントンがどうなっているかを確認した。「5タラントン」「2タラントン」を預かった者たちは商売をしてそれぞれ「5タラントン」「2タラントン」を儲け。しかし「1タラントンを預かった者はそれを用いることなく、土の中に埋めていた」(マタイの福音書25章14〜18節)
 この節は次のように解釈されています。主人から与えられたタラントンというのは、神から与えられた『才能』だったわけである。旅とは人生のことで、主人が帰ってきて彼らと清算したとは寿命がつきたことを意味する。神から才能を与えられた以上、その才能を生かし精一杯生き、社会のためになることだということなのです
(解釈はクリスチャン新聞2014年5月号から抜粋したものです)
 人にはそれぞれ能力、才能の違いがありますが、その能力、才能に応じて、社会に貢献できるように努力していかなければならないという教えが、新約聖書のなかにあるのです。ちなみに土に埋めて何もしなかった者は罰せられことになるのです。
 一方で財産を施し与える愛(ルカ福音書19章8節〜10節)、それに、イエスはムナ(ミナ)の例え話で、商売し儲けるということの大切さがルカ福音書(19章11〜25節)に示されています。そして26節と27節には「主人は言った、言っておくが誰でも持っている人は更に与えられるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる・・・・」という弱肉強食の社会は、アダムスミスの国富論やマルクス思想の原点になったことを思い、イエスの第一の教えである「隣人を愛せよ」という言葉が導かれたのでしょう。このことを思うとイエスキリストは経済をも考えていたことになるでしょう。そういう意味で聖書から考えると共産主義と自由主義は決して対立していなかったのです。そのように人間の心の深層を説き紀元前4千年以前から言い伝えられ、イエスの誕生の後2千年以上、紀元や西暦という年号が殆どの国に広がっていることは、神とイエスの奇跡だったのです。
 よく、十字軍戦争のことでキリスト教を気嫌う者が多いのですが、全くの誤解なのです。そして、キリスト教をただ宗教だということの認識ではなく、聖書の殆どが人間の弱さ愚かさ罪深さが示され、それに対しての教え戒め愛と平和を説き、悔い改めを求めているのです。また、キリスト教とはキリストの教えといえるようです。それは、ローマ書16章5節を見ると「また、その家にある教会によろしく伝えてください」とあるからです。要するに教会とは建物でなく教えの会ということが言えるでしょう。また宗教の教ではないでしょう。それは、教会とはギリシャ語では集会とか呼び出された者達となっているようです。
 以上のように「人間とは何か」ということと、人間の心の深層は哲学、科学では解き明かせなく、キリスト教(聖書)でしか解き明かせないのです。 
次に2014年10月10日ノーベル平和賞にノミネートされたことを考えてみましたので、ここをクリックして下さい。
トップへ
戻る

人間とは何か(キリスト教の神髄)