2017年12月
ニーチェとマルクスから  
          人間とは何かの真理と経済学
201111月1日人間とは何かで投稿したものに、今回は青字の部分は一部修正、追加したものです)

 人間とは何かという真理が、進化論や科学では解き明かせない。人間と言う心の深層を探り、それをおよそ紀元前1800年(旧約聖書は1600年に渡る神とイスラエル民族の歴史を綴った書物である。(ネットの聖書の起源より)からという聖書にあらわしているキリスト教は、絶対的な真理だと思うのだ。それは歴史の上からみても19世紀の後半から、神を無くし真理を無くして経済を混乱させ、ニヒリズムに陥った原因の実業者や権力者達の偽の自由思想家達が、マルクスやニーチェ達の有識者に苦悩をあたえていたことだ。そして、世界恐慌、世界大戦に進んだことを忘れてはならない。

 1776年アダムスミスの国富論が経済学の始まりと言われ、経済学が科学として成立した最初のものと言われている。しかも、それは資本主義と言う経済組織が成長する事を、広く世界に告げ知らしめたものであった。
 そのアダムスミスは、この世の背後に創造者としての神を想定していた。人は利他心を随えた利己心によって、利益を追求してゆくならば、社会全体が調和ある発展をとげうる仕組みにできあがっている。そして、個人の利益は、神の見えざる手に導かれて、全体の福祉に貢献する。したがって我々のなすべきことは、この社会法則を自由に貫徹せしめることであって、これを阻害することであってはならないと、自由経済活動を奨励したもので、自由なる神と経済学は一体なものだったのだ。
(福沢諭吉は経済とは国を治め人民を救うこと、とある)

 産業革命を機に、経済構造も変化してアダムスミスの経済学は、現実の英国資本主義に沿うものと成らなくなった。それは、機械と言う怪物が資本制生産の支配者になりかけていた。スミスの予期しなかったような社会問題が起きつつあったのだ。その時リカードオは生産物が地主、資本家、労働者の三つの階級の間に分割する分配法則を解明し、その経済学体系を構築したのである。そのリカードオは資本主義社会の未来を、決して否定していなかったが、その分析には一抹の暗い影をさしていた。それは利潤率低下の傾向というマルクスを思わしめる考え方がそこに現れていたのだ。

 マルクス学派は労働価値論がその大きな武器である。それは、労働が価値を作る、したがって資本の利潤もまた労働が作くる、よって利潤は労働者から搾取したものであると、スミスの理論を覆したのである。しかし、当時のウイン大学の経済学教授達は、消費者の要望から出発してその経済理論を構成したのである、それは、価値は労働者がつくったものでなく、消費者大衆が労働者がつくったものを欲求するから生まれるもので、また、利潤は、労働者からの富の搾取から生まれるのでなく、資本というものが、生産性をもっているからこそ生まれるものであると、マルクス学派を批判したので有る。が、マルクスは自由競争による利潤率の低下が資本主義崩壊論を、ケインズは利潤率の低下を長期沈滞理論をあらわしている。(以上、世界十五大経済学、近代経済学研究会編、1964年富士書店出版、マルクスとケインズより)

 19世紀中頃から人間が利他心をなくし利己心の強さから真理を無くし、経済の混乱からニヒリズム(虚無主義)に陥った時、ニーチェは自由思想家とは実際のところは、宗教の虚偽を一掃するために不可欠な誠実で勇敢な無神論者であるどころか、俗化されたキリスト教徒にすぎない。かれらが、キリスト教の神を排除しようとしてもそれはキリスト教道徳をいっそう敬虔に保持するにすぎないと。
 それゆえ、これらの自由思想家が自分の非道徳的戦略を妨害する危険があると見るや、ニーチェはかれらを敵視することになる。なぜなら、人は神を放棄すると、それだけいっそう堅く道徳にしがみつくものだと。そして、神々は死んだ、われわれは今や超人を欲すと言った。

 ニーチェは大学で専攻していたのが神学だったが「イエスの生涯」を読んだ後、神学から離れ信教徒の母親と争い、そして神を否定し観念論と形而上学を批判することに成るが、ニーチェがマルクスを学んでいたら、ニーチェの思想は変わっていただろうと言われている。(以上、文庫クセジュより、ジャン・グラニエ著・須藤訓任訳、1998年白水社出版「ニーチェ」から)

 ニーチェがマルクスを学んでいたら、ニーチェの思想は変わっていただろうということは、マルクスはニーチェと違って神を観念論を否定していなかったからだ。それは、人間はパンのみで生きるにあらず、神の口からでる言葉によって生きる。これが聖書の言葉で形而上学的観念論といわれ、マルクスは、されど人間はパン無くして生きるに能わず、と弁証法的唯物論を表したのだ。「廣松渉著、1990年講談社発行、今こそマルクスを読み返す”と先のニーチェより」

日本が構造改革での経済の縮小で経済が混沌とし、進化論で神を批判している今の日本と、19世紀半ば以降実業家、権力者の自由思想家等が真理を無くしキリスト教を捨て、経済を混沌のとさせ社会が混乱していた虚無的な時代と同じだと思うのだ。そして、その時代にヒューマニズムから、ニーチェ、マルクスを悩ませていたことを知るべきだ。
 
 その後、世界大恐慌に陥った時にロシアは影響しなかったが、1936年にケインズの一般理論が発表され、それをケインズ革命といわれケインズ学派が台頭し現在にいたるのである。そのケインズが大恐慌の前に、資本主義の危機を克服するための解決策として取り上げたのは貨幣政策だった。ケインズは金融資本の利益をはかる諸政策が産業資本の利益を侵害することは極力反対の意思を表明した。不況の際には、利子率を下げて産業活動を促進させるために、割引政策や公開市場政策が景気回復政策として考えられていた。 しかし、当時の目前に累積する経済問題は、かかる貨幣政策をもってしては、もはや解決しえないものになっていた。(世界十五大経済学、近代経済学研究会編、富士書店出版、マルクスとケインズより)

 今の日本の経済にピッタリしていると思うのだ。要するにただ競争、競争ではなく戦いでもなく、小泉さんのライオンハートでもなかったのだ、真理と経済を追求して、世界協調する時代だったのだ。

 現在まで世界経済は金融経済による利益しか考えていなかったが、産業資本利益を考えたケインズ学派を参考に再構築する必要があるのだ。日本も、もっと早くから円高に対する対策をしなければ成らなかったのだ。それは、経済政策を金融だけに頼り超量的緩和、超低金利を長年続けてきて(国際的に金利の安い円を借りてもらい利用してもらえれば円安になるが、しかし、その結果アメリカのバブル崩壊とリーマンショックで金融経済は崩壊し、逆に円高になっているのだ)、また、円高で低価格競争を続けてきた結果経済は行きずまり、海外依存と海外進出での産業空洞化で国内衰退と成ったのだ。今では為替は安定が必要なのだ。円高だと手持ちドルが損失になるだろうけど、円安になると輸入価格が高くなり経済に影響するからだ、また、空洞化の問題は規制が必要だろうし、低価格競争は独禁法を適用したらどうだろう。TPPの問題は価格競争をしてきた日本の責任と思うべきだ。そして、それを安易に受け入れたら大変なことになるだろう。そして、国際的に日本の経済方針をしっかり持つ事だ。競争や利己心だけでなく利他心をしっかり持つことだと思うのだ、要するに人間の真理を悟るべきなのだ、もっと言うならば、経済学哲学の根源はキリスト教だということを知るべきだ。
低価格競争がバブル以前から粗利益を低くしていて、それが2015年度でも労働生産性が主要国の20位となっている。良く生産性という事が言われるが、労働力を少なく生産を上げる事だと言われ、物を多く作っても消費するのは殆どが労働者だという事、労働者の賃金が消費に影響することを忘れてはならない。また円高は修正され株価も高くなっているが、前項のように実体経済は改善されてなく、消費は低迷(7月〜9月は前期比マイナス)されたままでデフレも改善されていないので、国家予算の計上が大きくなり、国債に頼ったままなのだ。そして負債は増え続け負債大国に成っている.

 旧約聖書で人間を創造した神は、人間以外の他の動物は本能のまま生きる、状況に応じて変化していくしかない、それに対して人間は本能に従うことも逆らうことも出来る、悪も善も選択することができる、それが自由意志を持つということで、人間は自由だという。しかし神は悪を戒め憎んだのだ。(キリスト教日本ホーリネス教団出版、いのちへの道より)

 それを悪を戒め憎んだということを放棄し、ただ自由ということだけを持った利他心のない利己心の強い事業家や権力者の偽自由思想家が多くなった事で、ニーチェは神々は死んだといったと思うのだ。また「われわれはいまや超人を欲す」といった超人とはキリストのような人間をいったのでないかと思うのだ、をなぜならニーチェは大学では神学を専攻していたからだ、その神を失った事業家や権力者等の間違った自由思想家達が、経済を混乱させ世界恐慌そして世界戦争に進んだ原因をつくったのだ。
「隣人を愛せよ」「汝の敵を愛せよ」と説いたイエス、これこそ世界平和のもとで、それには経済が大きく左右しているのだ。

 現在の日本は法律や道徳に反しなければ、自由競争で何をしてもかまわないという競争思想で、まだ構造改革で競争といっている東大の教授は、新たな経済学をはっきり披露してもらいたいものだ。それが出来たらノーベル賞ものだろう。世界は一つでグローバルといっても外国為替の垣根をどう見るのだ、いま円高デフレで苦しんでいるのに。グローバルとは神の領域だろうとおもうのだ。
現在は円高が修正されていると思うのだが、まだ円高と思っているのかが問題で、海外生産が主力となっている現在、円安は物格を押し上げデフレの要因をつくるのだ。

 最後に神をイエスキリストを信じないものには奇跡が起きないことを付け足しておきます。
尚、
(宗教とは
人間の力や自然の力を超越した存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづく教義、儀礼、施設、組織などを そなえた社会集団のことである)という概念がありますが、キリスト教の教は宗教の教では無く、キリストの教えであり、人間とは何かの真理を説いているのです。そして経済学はその上に成り立っていると思うのです。これらを日蓮に置き換えると、來世のことより現世をどう生きるか、と説いたことにも通じると思うのです。

 以上これは信仰していない人への批判では決してありません。利潤というものが、その利潤をつかさどる経済学というものが、いかに社会を円滑に、且つ、人々に良い影響を与えるコンテンツの一つだという事、そして、そこには人間とは何かの真理が必要だと、それを平和の為にニーチェやマルクスがケインズが悩んだ事、現在経済学を見失っている事をわかって欲しかったのです。生命誕生と聖書をご覧ください

201111月1日投稿したのを一部修正(宗教改革は16世紀ですので削除、聖書の起源3000年を旧約聖書紀元前1800年に修正)(青字)は追加したものです

参考

資本論(岩波文庫発行、資本論(一)エンゲルス編、向坂逸郎訳)の最後に以下に述べてあるのを紹介します。
労働力の買いと売りとが、その棚の内で行われている流通または商品交換の部面は、実際において天賦人権んのエデン(花園)で有った。ここにもっぱら行われることは、自由、平等、財産およびベンサム(最大多数の最大幸福)である。・・中略(自由、平等、財産、ベンサムの解説)・・彼らを一緒にし、一つの関係に結び付ける唯一の力は、彼らの利己、彼らの私的利益の力である。そしてまさにこのように各人が自分のことだけにかかわって、何人も他人のことにかかわらないということであるから、すべて人々は、事物予定調和の力で、あるいは万事を心得た神の摂理のおかげで、はじめて彼らのお互いの利益、共通利益、総利益のために働くことになるのである。(これはリンク最初のマルクスとケインズの最後に紹介したものです)

以上アダムスミスの”神の見えざる手”のような事が述べられているのです。
共産主義だとか批判せず、自由勝手なことをするのではなく、経済の本質真理をくみ取るべきなのです。関連ニーチェについて

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